二合半と千疋



 地名が誕生した由来はさまざまであり、それなりの意味や価値があった。しかし、時代の変遷とともに消え去ったのも少なくない。そして、やがては人々の世代交代により忘却されて行く。ところが注意して地図など見ると、演歌の題名ではないが「昔の名前で出ています」という事象に気づくのである。武蔵野線の吉川駅のあたりから中川に沿って、三郷インターチェンジのちょいと南の高速道路下へ、二合半用水が貫いている。このあたりは「二合半領」という珍しい地名の良質米の大産地だった。
 二合半とは、二合五勺で米の量のことである。こんな半端な数が、なぜ付けられたのであろうか。「千石」などの景気のよいのが、なぜ付かなかったのであろうか。この米の大産地の小さな地名、「何か中に隠れているのでは」と、二合半について考察してみたい。 

 米二合半を四倍すると一升になる。米一斗を四倍すると一俵になる。米二俵半を四倍すると一石になる。当時は米と布は通貨の代わりをしていた。通貨について調べると、金一両が四分、一分は四朱、銀六〇匁が銭四貫(一貫は千文)である。これは元禄時代に決められた。
 米も貨幣も、4の倍数や4の約数が基本で、共通性がある。これは、米から通貨へと移行するとき、等価交換が円滑にできるようになっていたのだと考えることができる。二合半も、賃金か税に関係があるのではないか。
 辞書によると、二合半とは二合五勺で、少量の意味を表す。昔は一日二食の生活で、一食二合半で一日五合の米を食べていた。米は給与であり二合半とは、二食分、一日五合の給与を与えられている者の意味だそうだ。すなわち二合半とは、働いて一日分五合の米を受け取る、サラリーマンのような人々の代名詞であった。


 この二合半用水の流域には彦糸、彦音、彦成、上彦名、彦川戸、彦野、彦沢、彦江など、「彦」の文字の入った地名が多い。この彦の文字、二合半と因果関係がありそうな数の多さだ。
 「彦」とは、男子の美称である。かつて私は、安行式縄文土器の研究者から話を聞いたことがあった。彼によると「彦」は男子のことで、奈良時代、国の政策で土地の開拓者が奈良の方から集団でやってきた所だという。

 歴史年表で確認すると、722年、元正天皇(女帝)が百万町歩開墾を計画した、とある。また当時は、集団移住が行われたり、三世一身の法(さんぜいっしんのほう/新たに開墾した者は、本人から三代にわたって、その土地の保有を許した)で十二歳以上の者に、国が口分田を授けた時代でもある。開拓者の彦たちが土地の名になったのは事実のようである。
 この地域には、「番匠免」というのもある。番匠とは古代、交替で都に上がり、木工寮で労務に服した大工のことである。この名も奈良時代に関係がある。
 さらに中川の西には土手に沿って街道があり、街道沿いに四条、別府、八条などの都風の地名まである。特に「別府」とは郡に置かれた役所で国司のいた国府と同義語である。さしずめ現在の県庁所在地であった。奈良との関係が強調される。

 別府のすぐ南に「千疋(せんびき)」という妙な地名がある。銀座の有名な果物屋で、「千疋屋」という店がある。この屋号、出身地の千疋からとったとか。
 さて、この疋とは布を数える単位で、二反で一疋と言った。千疋とは布二反の千倍、2000反の布のことである。どうやら布が多く集まるところのようだ。一疋が布二反。この2も4の約数で、通貨や米との等価交換が楽な数である。
 この千疋も、近くの別府と関係があったのではなかろうか。
 米も布も税として徴収するところが別府、布を集めておいたり、管理しておくところが千疋と考えると、都合よく地名の説明が付く。近くの中川の土手は当時、京に通じる街道と考えると、さらに納得できるものになる。
 蛇足だが、貨幣の単位に「両」がある。この両の字、両方だとか両親などのように一組という意味もある。かつては反物一疋と一両は等価で同義語なのだそうだ。布の価値は、奈良時代には相当なものであったようである。
 それにしても、江戸時代の一両は金貨の小判であった。明治以後は両は廃止され円になった。そして十文を一銭としたので、一両は四円に相当するようだ。今では地名より早く風化して、吹けば飛ぶような一グラムのアルミ貨に成り下がっている。

 ともあれ、二合半、千疋、別府など中川沿いは、当時としては人口の多い文化の中心地であった。一日五合の賃金ではるばると遠い地から来て土地の開墾をし、口分田として国から土地を借り、住み着いた人々、その生活の匂いがこれらの地名に染みついているようである。
 すぐ近くの柿ノ木には、立派な社寺が多い。その昔の発展と人々の経済力が、間接的に見えるような地域である。(あみゅーず76号より転載)