砂丘と寺社  

 
 春日部には、古利根川と冬の季節風の相互作用でできた河畔砂丘が三つある。小渕・浜川戸・藤塚の砂丘である。これらは早くから開かれ、神社や寺が建てられ、地域の人々の文化の拠点でもあった。
   
   

小渕の河畔砂丘

 北春日部駅東口から宮代方面に300mほど行くと、T字路信号があり、右手に古利根川に架かる小渕橋がある。
 橋の上から左手前方を見る。三階建ての自動車教習所の背後から幸楽荘(春日部老人福祉センター)まで、松などの緑が視界に入り眺めがよい。河畔砂丘の自然が残っている。この砂丘、右手の方は雪印食品工場(現米久)の裏を通り、16号を貫いている。長さ1.7km、最高点の標高は18mの、市内ではもっとも大きな砂丘である。
 小渕は、かつて巨渕と言われていた。古利根川は江戸時代の初期まで、この辺りに大きな渕をつくり、古隅田川を通り、元荒川と合流していた。古利根川は、そのころまでは利根川の幹流であった。群馬方面から大量の水が押し寄せていた証が、この砂丘である。

 自動車教習所の後ろは人工的な崖になっている(写真)。川に面した砂丘を削り取り、平地にして教習所にしている。崖の上は昔のままの砂丘で、竹が生え、松や榎などの雑木が昔のおもかげを少し残している。地元の子どもたちは、ここを不二山と呼んでいる。

  

不動院

 1800年初期の「日光道中分間延絵図」には、この砂丘に不動院、浄春院、燈明台などが描かれている。これによると、この不二山の南側に大規模な不動院があった。広大な敷地を有し、塀をめぐらし、屋根つきの門が3つもあった。門前には道の両側に20〜30軒の門前町ができており、その道は500mほど離れた小渕観音の南を通り、日光街道に通じている。
 川と街道に接している地形は、戦略上の要衝である。近くの関宿城や岩槻城趾と比較しても、この砂丘は城があっても不思議ではない地形である。
 不動院の創設者は饗場能登守(法印秀円?)という1500年ごろの山伏で、京都修験宗本山派・京都聖護院の流れである。修験宗の宗旨は、不動明王の霊験をうやまい、己の修行のため食料は自ら耕し、余れば施す。市内の地名「不動院野」は、修験者たちの開拓地ではあるまいか。
 さて、この不動院、相当な勢力となり、関ヶ原で敗れた西軍・豊臣方の残党を不動院野にかくまったと伝えられている。
 一説によると、栄えたころは関東に880余の末寺を持ったと言われ、第6世・頼栄は、水戸黄門で有名な水戸光圀の息女と縁組みしている。徳川家光は1649年、この不動院に百石の朱印状を与え、破格の厚遇をした。情報の提供など見返りを期待したのかも。
 幕末、上野の山で彰義隊が官軍に敗れ会津へ逃れるとき、この不動院に集結し、官軍を迎撃することも議論されたという。この砂丘、形状が上野の山に似ているようだ。ちなみに、上野から春日部までの日光街道に砂丘はない。この不動院、明治維新の修験禁止で廃寺となり、消滅した。

  

浄春院

 この不二山の砂丘の200mほど北に、浄春院がある。開基は一色宮内大輔公保で、不動院より古いようだ。1648年、幕府から寺領十石の御朱印をいただく屈指の名号である。
 参道には松が植えられ、山門前には桜の古木がある。山門を入ると、右手には砂丘が残っていた。そこにはケヤキ、カシ、エノキなど高木が自然のままに生え、二つのお堂と鐘楼が美しく配されている。
 こればかりではない。正面の本堂の裏は、大きな自然砂丘がそのまま残っていて、赤松などが昔のおもかげを偲ばせている。この寺、砂丘の立体感と自然の木々を巧みに生かした造りで、京風の古刹を想起させる。

 境内(写真)には、位牌堂、観音堂、薬師堂、稲荷社、座禅道場など見るべきものが多い。この辺りは北緯36度、地球上では四季の変化に富んだ、もっとも美しいところなのである。雪景色の風致を見たいものである。
 余談だが、この寺のすぐ近くに京風庭園の「遊心」がある。フランス料理のレストランだが、妙に落ち着けるから不思議だ。

  

鷲と鷺が同居する神社

 

浄春院に地続きで、北に神社がある。地図では大杉神社、前述の絵地図では百余尊社と描かれている。巨渕は龍の都に通じると言われ、あるとき龍神が現われ「百余の神は吾の分身だ」とか告げ、渕に消えたと郷土事典にある。
 行ってみたら、大杉神社も百余尊社もなかった。あるのは鷲神社と鷺神社だけ(写真)、それも一つの社(やしろ)に同居している。鷲神社は本郷の鎮守、鷺神社は小渕の鎮守となっていた。

 今年は穏やかな元日を迎えた。昼下がり、初参りに行ってみた。浄春院には数人の参拝者が来ていた。遠くから来るのか車もあった。
 隣の神社に行ってみた。参道の右側にテントが張られ、参拝者が絶えない。村の鎮守様として、地域の人々に大切にされている。社殿の中は板壁で真ん中から仕切られていた。正面の右は鷲神社の寮銭箱、左は鷺神社の賽銭箱が仲よく並び、その後ろで両社の関係者が三、四人ずつ白い神衣を着てお祓いをしてくれる。私も参拝をしたら、お神酒を振る舞ってくれた。
 関係者の話では、鷲神社は杉戸町本郷の鎮守、鷺神社は小渕の鎮守で、敷地も参道の敷石の中央から半分右は本郷、半分左は小渕のもので、賽銭も一緒にして平等に分かち合うことはしないという。
 なお、鷲神社の敷地は、本郷の飛び地であるそうだ。責任者の高橋弘道さん(小渕)に聞いてみたが、今日では、なぜ二つの神社になったのか、ことの顛末はわからないようだ。

 私なりに顛末を推理してみた。
 この神社の北の砂丘の端(もっとも高いところ、今は墓地)に、燈明台があった。燈明とは、神社に供える灯火であり、救いの願いでもある。このことから、この砂丘は洪水の時などに住民の避難所だったのではあるまいか。
 「本郷」という地名は、最初に開け、付近の発展の基礎となった土地だ。おそらく鎌倉時代以前の開拓地ではなかろうか。一方、小渕も早くから開かれた土地である。そして本郷村も小渕村も、幸手一色氏の領地であった。
 何らかの理由で両村がこの砂丘にこだわり、話し合いの結果、一堂二神の鎮守ができたのでは?白鷺の白は汚れのない美を表し、吉兆の象徴。鷲は翼を広げて空からにらみ、強さと権力の象徴である。この両鳥が、鎮守の神として一堂に仲よく祀られている。何かを人に訴えているようでもある。
 江戸時代、将軍綱吉は「生類憐れみの令」を出し、仙台・伊達藩は当地を鷹狩場として、特に野鳥を保護してきた。この珍しい鎮守様、これらのことと因果があるのかと、ふと思った。
この砂丘の自然が、かろうじて残ったのは寺社のおかげである
《あみゅーず94号(2002年3月)より転載》