満蔵寺と梅若塚
東武野田線・八木崎駅から浜川戸第2公園前を通り、国道16号線を新方袋信号で横切り、道なりに行くと満蔵寺参道前に着く。そこには、「史蹟梅若塚、天然記念物御菓付銀杏、満蔵寺入口」と記した花崗岩の立派な石碑が立っており、迷うことはない。駅から徒歩15分である。
梅若塚は、正門の入口右側に桜と柳の木に囲まれており、お葉付き逆さイチョウは境内の本殿右、梅若塚ゆかりの地蔵尊は本殿の左にある。本殿裏の竹林や雑木の茂みは、古(いにしえ)の奥州街道で、隅田川(江戸時代以前は古隅田川でなく、隅田川と言われたはずである)の堤跡である。
お葉付き逆さイチョウ
境内には、県指定の天然記念物、お葉付き逆さイチョウがある。太さ3m、樹齢350年と言われている。お葉付きとは、枝端に葉が数枚群生し、葉の縁の窪みや葉脈に実を付ける。実を付ける葉は普通より小さく、その多くは奇形をしている。このイチョウの変種は全国で5本しか見つかっていない。
昨年の秋に行ったが、見つからなかった。住職さんのお話では、今では木の上部にしか出現しないと言う。以前は下方の枝にも出たが、植木屋さんや見学者が挿し木用にと変種の出る枝を折って、持って帰ってしまった結果らしい。
以下は、私の仮設であるが、このお葉付きは植物遺伝子の進化の過程ではあるまいか。植物の花は、葉が変異して進化した生殖器である。有名な月下美人の花は、葉の縁から筆先のようなものが垂れ下がり、それが花になる。ミズキ科のハナイカダは、葉の真ん中に花がつき実がなる。お葉付きは、葉上に花実をつける遺伝子進化の途中の具現で、遺伝学問上も貴重なものと言えよう。
さらに、このイチョウの木は枝の向きが逆さのものが多い。下方の枝は、傘のように下向きである。普通のものは、みんな上向き。ちなみに、逆さイチョウと言えば、港区元麻布の善福寺のイチョウが有名だ。都内最大で、幹周り10m。昭和20年5月の空襲で焼けたが、生命力が強く蘇生した。伝説では、親鷲上人が杖を逆さに挿して、そのまま忘れたものと言われているが、この満歳寺のイチョウにも杖の話があったとか。
イチョウは中国原産といわれ、原生林は日本にはない。山梨県身延町の上沢寺のお葉付きイチョウも、逆さイチョウである。この辺りから広まったのかも知れない。これは、ちょっと考え過ぎかな。
梅若塚伝説
春日部市新方袋にある満蔵寺の梅若塚を略記した版木が、NHKからテレビ放送された(昭和40年3月15日)。この版木は、新方袋の名主様と呼ばれる名家・山口亨氏所蔵のもので、応永三年(1393年)と記されている(翌年、室町幕府の足利義満が金閣寺を造営。そんな時代背景)。梅若物語の発生から420年後のことである。この版木には、梅若の母の最後のことが詳しく語られており、これは他に類のない言い伝えで貴重である。
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ところで、謡曲「隅田川」は足利義満に仕えた能役者・世阿弥(1363〜1443)の子、元雅の作であるといわれる。つまり、元雅(生年不詳)30歳ごろの作品と推定すると、版木の記述の、さらに30年後に完成している。
「隅田川」は、大切なわが子・梅若を失った母の悲哀の伝説物語である。
梅若は、京都の北白川にあったという公家・吉田少将惟房の一子である。母「花子の前」は子のないことを嘆き、比叡山麓(坂本村)の日吉大社に七日七夜の祈願をして授かり、7月7日に生まれた。5歳のとき父を亡くし、七歳で比叡山月林寺に入る。12歳のとき山僧の争いにあい大津に逃れ、そこで信夫(しのぶ)の藤太(福島県白河郡泉埼村には、彼の屋敷林、喜藤太屋敷という伝説がある)に誘拐された。やがて、この地まで来たとき、母恋しさと旅の疲れで重い病にかかる。
藤太の足手まといとなった梅若は、この隅田川に捨てられる。梅若は溺れかけたが、身につけたお守りが柳の枝にかかり助かる。里人に手厚い介抱を受けたが、身の素性を語り、
尋ねきて 問ばば応えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと
この歌を遺して、息絶えた(974年3月15日)。わずか12歳だった。
里人は梅若丸を哀れに思い塚を築き桜の木を植えた。……この桜の木と思われる巨木が梅若塚の後ろにあったが、昭和25年ごろ枯れたという。残念至極。
一方、母は狂女のごとく梅若を探し求めた。やがて、この地に来たとき、梅若丸一周忌の法要に会い吾が子の死を知る。彼女は名を妙亀と改め出家する。あるとき、近くの鏡の池(県立春日部高校西の工業団地付近らしい)で、
くみ知りて あわれとおもへ 都鳥 子に捨てられし 母の心を
と詠じると、池上に梅若の姿が顕れ、吾が子のまぼろしと対面した母は入水してしまう。
これを知った満蔵寺開山の祐閑和尚は、木像を彫って、その体内に梅若丸の携えていた母の形見の守り本尊を納め、お堂を建てて安置したという。これが満蔵寺境内にある子育て地蔵尊である。この地蔵尊は安産などの守護として、昔から多くの信仰を集めている。7月23日はこの地蔵尊の祭日で、戦前は相当の人出で賑わったという。
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毎年3月15日の梅若丸の命日には、里人が集まり、春祈祷が行われてきた。今日では、この日が里人の寄り合い会議の日になっている。また、4月13日前後の日曜日には宝生流の能が奉納され、梅若の供養をしている。
梅若塚は、昔から里人や多くの関係者の心の絆を強め、温めてきた郷土の宝でもある。
隅田川の原点は、この古隅田川である。
地名は、新方袋。新方とは新潟、干潟の意味を持つ。袋状に川に包まれた湿地である。この満蔵寺の後ろを流れる古隅田川は、江戸時代の初期までは利根川の幹流で、川幅200m以上もあったようだ。
三国山脈系に降った群馬県の雨は利根川に集まり、春日部の小淵で大曲がりし隅田川と名を変え、岩槻の長宮で元荒川と合流していた。溢れ出した水は、沼や大湿地を造った。当時は、洪水と共生していたのである。
この辺りの地名には、大沼、立沼、谷原、薄谷、増戸、道順川戸、浜川戸(戸のつく地名は、水辺への出入口)、上沖など、大湿地を想起させる地名が多い。大沼などは100haほどもあったという。今では隅田川は古隅田川と名を変え、幅10mほどの「墨だ川」となり果てた、下水同様の彩の川?である。謡曲「隅田川」の優雅な能の世界とは、あまりにもかけ離れた現状である。ただ救われるのは、国道16号線から宮川小学校(春日部市立)にかけて、往事の自然堤防の砂丘が残っていることである。市の公園緑地課でもこれを重視して、古隅田公園や古隅田川緑道として保存している。
これぞ、謡曲「隅田川」時代の貴重な古奥州街道の一部である。今でも雑木林や竹林などが密生し、野鳥の飛び交う小さな自然が残されている。しかし、かつての大河の川底は田畑や住宅地となった。
せめて川だけでも、「なんとか美しいものにしたい」と訴えたい。市民の方々、いかがでしょうか。
4月上旬、満歳寺を訪れたら、梅若塚は満開の桜と柳の若葉に包まれ、門内の枝垂れ桜が巨大な月光石に照り映えて、まさに優雅な能の世界を醸し出していた。《あみゅーず84号(平成12年7月)より転載》
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