北緯36度線の内牧


 われわれ埼玉県民は、地球上の緯度など考えて生活することはない。しかし、この緯度が人類の生活に大きな影響を及ぼしている。地球上でもっとも好まれる気候が北緯36度線、この線が春日部市内牧を通っている。

 テレビの天気予報では、気圧の動き、雲の流れ、予想雨量などをわかりやすく解説してくれる。見ていると、東北地方と関東地方の違いが明確なことが多い。境界線は福島県と栃木県の間、北緯37度、この緯度が気候上、重要な意味を持っている。
 地球は、太陽から1分間に2カロリーの熱(1平方センチあたり)を受け、それと同等の熱を宇宙に放出してバランスを保っている(最近は炭酸ガスがバランスを崩してきたが)。しかし、受ける熱量は赤道地方と極地方では大差だ。
 特に極地方では、夏は白夜、冬は暗黒の世界が続く。季節によって昼夜の割合、気温差は著しい。低緯度になるに従って差は縮まり、赤道直下ではオーバーヒートしている。この気温差を和らげているのが、地球の自転や大気による風と海流である。
 この受熱量のバランスのよい緯度は、どのあたりであろうか。

《北緯36度線》

緯度1度は1111kmである。気温方程式では緯度1度、標高100m違うと、それぞれ0.6度差が出る。ところが北緯37度線と36度線では、この方程式は通用しない。36度線では南の気団に包まれることが多く、温和で荒れが少ないのだ。
 北極星を地平線から36度に仰ぐ北緯36度線を吟味すると、赤道と北極の距離のジャスト10分の4、赤道から4000km、北極から6000kmの位置だ。地球をめぐるこの緯度の長さは24000km。参考までに、北緯45度は北海道の稚内で、赤道と北極の中間点である。この北緯36度線は、夏と冬の昼夜の割合も、温度差もほどよい。四季の変化も絶好で、春と秋は長く、冬は雪見酒も楽しめる。夏の蒸し暑さには閉口するが、これが米作には適している。
 植物では、温帯系のカシやシイノキの照葉樹と、冷温帯のブナやミズナラなどの夏緑樹が混合するのが、北緯37度線付近である。このあたりが、南の暖かい気団と北の冷たい気団が衝突し、海では暖流と寒流が混じり合う。日光(栃木県)の自然が美しいのも、地形ばかりではなく緯度とも関係が深いようだ。しかし、この37度線、人間様にはよいことばかりではない。冷たい気団と暖かい気団の衝突は、にわか雨や雷が多いのである。

 では、どのあたりが住むのによいところであろうか。我田引水ではあるが、私はずばり北緯36度と考えている。この線が野田市から春日部市の不動院野、春日部市立小渕小学校、内牧のエミナース(国民年金総合健康センター)をかすめ、白岡町や桶川市を通っている。
 埼玉県のほぼ真ん中を貫140度線の交点は水海道市、139度線との交点は秩父の小鹿野町である。
 春日部市の気候を調べてみた。昭和63年から10年間の平均気温は15.5度(世界15.3度)、年間降雨量は1087ミリ(世界973ミリ、日本1788ミリ)である。
 気温も、雨量も、世界の平均をやや上まわる。環境は特上(ほめすぎ?)である。雨量が少ないのは、埼玉県の北と西が高い山地に囲まれているため、冬は晴天に恵まれるからである。
 内牧は、春日部市の北部地区。北緯36度線が通り、標高は16メートルの山の手(?)である。関東ローム層からなる丘で、大宮台地の一部である。
 教育センターの学芸員の話によると、この内牧地区のローム層の中から住居遺跡が30以上も発見され、古いのは2万5千年前の石器時代のものもあると言う。

《関東ローム層》

関東地方の大地や丘陵を覆っている赤褐色の火山灰層。箱根、浅間などの火山から噴出したもので、30万年を超える古いものはない。関東ローム層は、古い順から大別して、多摩ローム、下末吉ローム、武蔵野ローム、立川ロームの4種類に分類される。大宮台地は、武蔵野ローム・立川ローム(1万年〜6万年前)からなる。従って、このローム層から遺跡が出れば、少なくとも1万年以上昔のものである。
 数千年前、内牧近くの低地は海になったことがある。台地の貝塚(昔の人の掃き溜め)からは貝類とともに縄文土器が大量に発見されている(この昔の人をしのぶ生活の様子が、内牧公園の中に再現されている)。
 時代がぐっと下がって米作が始まり、4世紀ごろから地域をまとめる有力者が出現してきた。証拠として、当時の古墳が17基も発見された。このあたりは太古から人々の生活の場として(水や食料が確保できる)、住みやすいところとして栄えていたのである。
 20年前、内牧にナシ狩りに行った。サイクリング道路は〈春の小川〉そのもの、メダカやカエルの天国の里山があった。コジュケイが雛をぞろぞろ連れて藪から出てきた。
 豊かな自然が残っていたこの内牧も、開発の時代の波に飲み込まれた。宅地開発ばかりでなく、短大、エミナース、彩光園など大型公共建物ができた。大規模な内牧公園も造られた。コナラ、クヌギ、イヌシデなど年代ものの雑木が大量に伐採された。
 芝生の大広場ができ、桜の木が植えられた。コンクリートと岩石で固められた人工のせせらぎがポンプで流れ、美しい水辺となったが、メダカやカエルが姿を消した。アスレチック場やバーベキュー場、トイレも完備され、多くの市民の憩いの場として広い駐車場もできた。
 「昔はなあ、この森い入ると、冷やりとするほど涼しかったよ」と、老人が話しかけてきた。今、内牧・武里間の道路が造られている。できあがると、便利さの代償に残り少ない屋敷林などの自然は、さらに失われるのを私は憂える。内牧は、古代から人々の営みが営々と続いた自然環境良好な生活の場である。
 「命くれない」太古の人々と現代人の絆の場として、この36度線の残り少ない自然と古代の文化遺産を、このまま後世に残して欲しいと願っている。《あみゅーず85号(平成12年9月)より転載》